Findy Engineer Lab

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たった1人のヘビーユーザと向き合った熱量を今でも── "グロース請負人"を目指すキャリアの根源にあるもの

自分で作ったサービスを見知らぬ誰かに初めて使ってもらった日のことを覚えていますか?いつだって初めの一歩は印象的なものですが、僕にとってのそれもまた、強烈な記憶と共に残っています。

株式会社HQでCTOをしている髙橋侑久(@yuku_t)と申します。昨今のコロナ禍で在宅主体で働くようになった自分自身や友人、日本企業のためのプロダクトを作ることに魅力を感じて今の仕事をしています。個人サービス開発にのめり込む形で踏み出したソフトウェアエンジニアとしてのキャリアが、途中で寄り道をしつつも、いかにして今の場所にたどり着くに至ったのか、その変遷を紹介したいと思います。

少し長めのプロローグ:たった1人のヘビーユーザ

僕は大学で情報学を専攻したことを機に、プログラミングを始めました。情報系の大学に在籍した人なら分かると思うのですが、そこには小さい頃からプログラムを書いてきた人が一定数いて、しかも「今さら大学で何か学ぶ必要あるの?」と言いたくなるくらいコンピュータに詳しいのです。横並びでスタートを切ったつもりの同級生に見せつけられる圧倒的実力差。これは学校の授業だけでは追いつけないと悟った僕は、学外に機会を求め、プログラミングができるアルバイトを始めました。

求人票で最初に目についたというだけの理由で選んだのは、Webサービスを作る小さな会社でした。世間ではWeb 2.0が盛り上がり始めていた頃合いで、オフィスの本棚には技術書や漫画とともに梅田望夫さんの『Web進化論』が並んでいました。ふと手に取った僕は、APIで相互に接続されたWebの可能性にすっかり魅了されてしまい、自分でも何か作ってみようと思い立ったのでした。

検討の末、本の感想を共有するサービスを作ることにしました。理由の半分は、Amazon APIくらいしか知っているAPIがなかったから。そして残り半分は、自分が欲しかったから。自分が欲しいサービスを作る利点は、少なくとも世界に1人は利用者がいるということです。

Django 0.95で書き始めたそのサービスは、チュートリアルに毛が生えた程度のロジックに、工学部の学生が直感を頼りにデザインした不恰好なUIを無理やりかぶせて、なんとか形になりました。さくらのVPSにアプリケーションやデータベースを全て突っ込んで起動。お名前.comでドメインを取得してレコードを設定し、ブラウザにURLを打ち込んでみると、そこに確かに自分が作ったものがある!

当時のサービス
学生時代に運営していた書評サービスのスクリーンショット

その時点では、APIで検索した本にコメントを投稿する程度のことしかできませんでしたが、とにかく自分が作ったものがインターネット越しに動いているのだから愉快でたまりません。けれど利用者は自分だけですから、運用はとにかく雑。プロセスが死んでアクセスできなくても、SSHして起動し直せばOKという何ともゆるい感じです。

サービス運用を開始してしばらくすると、どこで知ったのかGoogle Adwordsが5,000円分のクーポン券を送ってきました。Web広告を知るよい機会だし、せっかくタダで使えるのだからやらなきゃ損でしょ! と今度はGIMPを使ってヘタクソなクリエイティブを作って、広告を出してみました。するとなんと、どこかの誰かがアカウント登録してくれたのです! うれし過ぎて下宿で1人祝杯をあげたことは想像に難くありません。しかもその人は、ほぼ毎日1冊のペースで本を読む、めちゃくちゃ多読の人でした。

唐突のユーザ獲得。しかも超重量級のヘビーユーザ。それまで自分が使うときに動いてさえいればよかったサービスが、その日を境にどこの誰か知らないあの人が、毎日のようにアクセスしてくれるサービスになったのだから大変です。もし「あの人」がアクセスしたときサービスがダウンしていたらどうしよう? と気が気でなくなり、プロセスの死活監視やゼロダウンタイムデプロイメントなど、安定稼働のために多くのことを学び、利用者1人のサービスとは思えないほどの熱量で実践しました。

少しでも便利にしようと、JavaScriptをいちから学んでAjaxを組み込んでみたりもしました。とにかく使ってもらえることがうれしくて、大学もそっちのけで家にこもって開発に没頭していました。

このサービスを通じて、下はインフラから上はデザインやマーケティングまで、実に幅広く経験することになりました。そしてやってみると、その全てが面白かった。何より自分がよいと思って一生懸命作ったものを、誰かに使ってもらえるのはとてもうれしいことなんだ。そう深く心に刻み込まれたのでした。

最初のサービスを開発していた2011年ごろの筆者
最初のサービスを開発していた2011年ごろの筆者

技術とプロダクトの間で揺れるエンジニアとしてのキャリア

大学生活はその後、博士後期課程まで進学して研究で忙しくなり、前述のサービスは運営の継続が困難になって閉鎖してしまいました。しかし、一方でどこか喪失感のようなものを感じていました。

そんな中、Google JapanのChromeチームでの夏季インターンに参加しました。世界中の人が使うWebブラウザの開発に参加していることに興奮を覚えつつも、全貌が全くつかめない巨大システムのごく一部を触るだけの日々が味気なくも感じます。僕もChromeユーザでしたが、ターゲットが全人類ともなると不思議と自分が使うプロダクトという気持ちも湧いてこないのです。

そんな折に、大学の同級生が起業したIncrementsから声をかけられました。その会社はITエンジニアリングの知識を共有できるQiitaを作っていて、友人を応援する気持ちもありますが、サービスが目指す世界そのものに共感し、将来性を感じていたこともあり、僕はおそらく一二を争うほど熱心なQiitaユーザとして活動していました。

自分が好きなサービスを作っている会社からのリファラルでの誘い。大学に残って誰の役に立つのか分からない論文を書くよりも、スタートアップの世界に飛び込む方が単純に面白そうだという直感に従った結果、大学を後にすることにしました。Incrementsには2013年に入社して6年近く在籍し、その間にQiitaは何百倍にも大きく成長し、日本中の人に認知され、そして利用してもらえるサービスになりました。Qiitaが成長していく過程で生じるさまざまな課題に対処しながらその旅路を近くで見届けたいという入社時の目標は、ある程度達成できたと思います。

Qiita時代にひとつの転機となったのは、CTOへの就任です。当時は、CTOという役職に期待される責務の認識が業界としても現在ほど確立されておらず、インターネットを見渡すとCTOを肩書きに持つ有名エンジニアが何人かいるという状況でした。むしろ「イケてるテック企業にはCTOがいるよね」という流れに乗っかるような形で、たった1人のフルタイムエンジニアがCTOを名乗ることになったのでした。

Qiitaが成長し、日本のテック系サービスとしてのブランドを確立するのに比例して「QiitaのCTO」というプレッシャーも増していきます。押し潰されまいと必死にあがく日々でした。

CTOとしての挫折の中から見えてきた1つの信念

紆余曲折を経て、会社は2017年末に買収されます。そこに至る1年間はまさに「ハードシングス」の様相でした。ほとんどの会社が何者にもなれず死に絶えていくスタートアップの世界で、一応の形あるゴールを迎えたことは、必ずしも悲観すべきものではないのかもしれません。

けれど買収規模などを踏まえると、僕らが目指した場所に及ばなかったことは確かです。まがりなりにもCxOの肩書を持った1人として、責任の一端が自分にもあるのは紛れもない事実でした。どうすればよかったのか、もっとうまくできたのではないかとずっと自問する1年でした。

嵐のように過ぎ去った2017年ですが、それまでずっと自分の中でふわふわしていた「CTOかくあるべき」という命題に対する信念のようなものを1つ、心身の消耗と引き換えに残していきました。

一貫した態度でとにかく決めること。自分が決めないなら、誰が決めるのかを決めること。

つまり「自分でやるか、移譲するのか、さっさと明確にして行動しろ」ってことです。在籍当時目指していたのは自己組織化されたチーム。社内向けには自律的なチームと表現していましたが、自律の意味を履き違え、ことを民主的に進めようとし過ぎてしまった結果、個々人は自律しているけれどチームとしての生産性は高くない状態に陥っていました。CTOとしてさまざまな過ちを犯しましたが、その中でもこれは特に最悪だったなと思います。

大きな挫折の果てに、ようやく芯のようなものが見えてきたのです。

とはいえ、その頃にはすっかりマネジメントというもの自体が嫌になっていました。CTOの看板も、なんだかんだあってこの頃に下ろしました。次の職場はとにかく強い上司がいてエンジニアリングに集中できる場所にしよう、ということだけを固く決めたのでした。

スペシャリストへの羨望と夢のデータエンジニア

何かの問題に遭遇したとき、助けを求めるのはその分野に明るい人です。データベースのスペシャリストがいるチームでデータベースの困りごとがあれば、みんなその人を頼るはずです。

端的に言って、自分はフルスタックエンジニアです。初期のスタートアップに携わっていると必然的に多くの役割が求められるため、そうなりがちです。広く何でもできるゼネラリストは便利である反面、器用貧乏というか、本当に深い問題には意外と役に立たなかったりします。フルスタック街道のど真ん中を突き進んできた人間が言うのだから間違いありません。

何か1つ自分の核となるような専門性を確立したい! そんな考えが日に日に強くなっていました。とはいえQiitaは上から下まで書いてきて、今さら一箇所に集中することも難しい。これはもう環境を変えるほかない。会社も買収という区切りを過ぎたことだし、気分を一新して転職しよう。これまで国内の小さなベンチャーにいたのだから、逆に振り切って多国籍のビッグテックに行くのはどうだろう。

ビッグテックともなれば採用面接の質問などもインターネットでうかがい知れますが、実際に中にいた人の話を聞くことも有益なはずと、応募した会社に勤めていた友人と久しぶりに連絡を取ってみました。話してみると、なんと偶然にも僕がまさに志望しているチームにいて辞めたというのです。

彼の口から語られる「なぜ私はそのチームを辞めたのか(=なぜ君はそこに行くべきでないか)」を聞いているうちに気持ちはどんどん萎えていき、気がついたときには驚くべきことに、彼がそのとき働くベンチャーへのジョインを決めていました。会社の名前はFLYWHEEL。ビッグテックで出会った創業者たちが当時の人脈を駆使して立ち上げたデータを専門にした会社です。

当時のデータエンジニアリングは盛り上がり始めていたトピックで、ますます膨大なデータが活用されることも確実。ビッグデータや機械学習にも興味がありました。データエンジニアこそ核に据えるに値する分野だと考え、ビッグテック出身者ばかりのチームに、初の国産スタートアップ出身者として加わることになりました。田舎のヤンキーみたいに「ナメられたらあかん」と考えながら初日を迎えたことをよく覚えています。会社的には10番目くらいの社員でした。

大切にしたかった価値観から離れてしまっていた

新しい会社での日々は、当初に想定した多国籍大企業ほどギャップはなかったのかもしれませんが、それでもQiitaのようなコテコテのtoCサービスでそれまで経験した開発とは一線を画すものでした。

創業者たちの経歴にもよるものか、FLYWHEELは普通のスタートアップでは手が届かない国内有数の大企業から多くのデータを預かり、システムを提供しています。扱っているデータは膨大なのに、会社は小さくて風通しがよく機動的で、国際的ビックテックで培われたビッグデータ技術をクラウドを駆使して実践する。まさにデータエンジニアリングするにはうってつけの環境であったと思います。

一方でクライアント企業との質量差が大きいため、ビジネス的な調整に苦慮する場面もありました。ビジネスの大部分まで自分たちでコントロールできるtoCサービスの開発に慣れた身にはそういう点も新鮮で、いわゆるSIerの仕事の一端を知れたという意味ではよい経験になりました。

加えて、ビッグテック出身者が多数を占める会社が目指す方向性と、ベンチャーで過ごしてきた僕が理想とするチームの姿が微妙に異なっていることも悩みのタネとなっていました。郷に入っては郷に従えの精神で臨んでみたものの、実のところカルチャーマッチしているとは言い難い状況でした。

そして仕事を変えたことによる一番の発見は、あるいは再発見は、僕はどこかの誰かのためではなく、自分や家族や友人を幸せにするプロダクトを作りたい、ということでした。学生時代に作ったサービスにしろ、 Qiitaにしろ、開発に熱中しているときは、いつも強く存在を感じるユーザの姿がありました。どんなに技術的に興味深かったとしても、それだけでは満たされないのです。それに気がついたなら、この場を離れるべきなのは明らかでした。

これまでの気付きをもとに3社目のスタートアップで

そうして今は、リモートワーク企業を支援するリモートHQの開発を行うHQ社で、創業チームの一員として事業の立ち上げを行なっています。FLYWHEELで再確認した自分や周囲の人を幸せにするプロダクトを創りたい想いと、Qiitaで果たせなかった偉大なチームを作る目標に基づいたサードキャリアです。

HQ社が開発の対象としているリモートワークは、コロナを期に大きなわがことになりました。私事ですがコロナ禍に2人目の子供が産まれ、在宅勤務のおかげで1人目のとき以上に夫婦で多くのことを分け合いました。十分な時間を家族と過ごす日々は単純に幸福で、リモートワークは家族に対して誠実であるためのツールだと思うようになりました。

一方で、リモートワークへの不満もあります。例えばオンラインミーティングでは、回線や音声デバイスが貧弱なメンバーが1人でもいると、最も低い品質に全体が合わせられてしまいます。高速で安定したインターネットとちゃんとした道具を全員に使ってもらいたいのですが、個人で購入してもらうのはたいへんですし、環境に合うかどうかという問題もあります。

これは従業員の生産性の話なので、本来は会社が投資すべきなのです。先進的なリモートファースト企業として知られるGitLab社も「オフィスに投資するように、従業員のホームオフィスに投資しなければならない」と言っています。リモートHQでは、企業は煩わしい備品管理などなく従業員のリモートワーク環境に投資でき、従業員は会社のお金で必要な道具を揃えられる。そんな個人と組織の両方を幸せにするサービスを目指しています。

チーム作りもまた、自分自身が身を置くわけですから、自分や友人を幸せにするプロダクトだと言えるでしょう。目指す姿は、一言で表すなら「当たり前のことを当たり前にやる」ということ。テストがあり、デプロイが自動化され、ビジネスチームと相互に信頼関係を構築でき、心理的安全性が高く、意見を安心して表明できる。そういったことが実現された環境では当たり前である一方、現実には全く当たり前ではありません。けれど、これを当たり前にできて初めて到達できる次の領域もあるはずです。

もちろん全てに時間をかけられないので、要点を押さえた舵取りが求められます。それこそ、これまでに培ってきた経験の見せどころだろうと思っています。

連続スタートアップ野郎からのグロース請負人を目指して

ここまで書いてきた「わたしの選択」を改めて振り返ってみると、創業間もない会社にばかり入ってきたなと気付かされます。何度も連続して事業を起こしていく起業家のことを、連続起業家(シリアルアントレプレナー)と言うそうですが、こうして三度スタートアップの舞台に立つ僕は、さながら連続スタートアップ野郎といった感じでしょうか。

必ずしも狙ったわけではありませんが、結果として歩んできた道のりを踏まえると、自分の性にはこれが合っているし、もはやライフワークなのではないかと最近では思うようになりました。今はとにもかくにもHQを成功させるのだと覚悟を決めて臨んでいます。何がなんでもやり切ります。

そしていつの日かこれをやり遂げたと思えた暁には、おそらく次の打席に向かうことでしょう。そうやってぐるぐると転生を繰り返し、螺旋を描きながら上昇し、人呼んで「グロース請負人」のようになれたなら、それは連続スタートアップ野郎のキャリアが行き着く1つの到達点としてアリなのではないかと考える今日この頃です。

筆者近影

編集:はてな編集部